2022年10月31日月曜日
双極性障害などで鬱状態にある人が片付けを考えるときに・・・「家がぐちゃぐちゃでいつも余裕がないあなたでも片づく方法」KC・デイビス(著)、村井理子(訳)
2022年10月27日木曜日
「今を楽しむ」ということ。精神科クリニックの直近の面談で印象に残った言葉です。
精神科クリニックの面談では、前回の面談からの日々の中で印象に残っている出来事や気づきを医師にまとめて伝え、それから対話をする、という流れが定着しています。
直近の面談では、まとめて伝えた内容に、まとまりはなく、、、自分がなにを感じているのか、なにが課題なのか、ぼんやりとしたままで、、、まあ、これはこれで、これまでもよくある通り、医師が選んで返した流れから、対話の方向は決まるだろうと、それが自分の今の主たる課題なのだろうと、信じて任せたつもりでいました。
ところが医師の返事は、伝えた内容をベースとして「今日はなにを話題にしたいか」、問うものでした。
「ええと、・・・」
話題にしたいこと、と言われていながら、伝えた内容とも医師の問いとも別のことが頭に浮かび、その、思考に方向付けられた道とは関係なく体から滲み上がったような、、なんていうか、、、体の叡智みたいなものへの信頼を共有する場にもなっているため、浮かぶに任せてそれを口にしてみました。
あとで振り返ると、こういうときに口を出るのは、自分で思ってもいなかったことや、ぼんやりとは感じながら形にまではなっていなかったもの、そしていずれにせよ、今の自分の、あるいはこれからしばらくの自分の、軸となるような、気づきや予感です。あるいはこのところの自分の流れを止めていた、、、ことが口に出して初めて確かになる、、・・いらぬ堰、律速段階、ボトルネック、のような、、、なんていうんだろう、、、長年の思い込み。知らず識らずのうちに思い込まされていたなにか。
今回は、ある前向きな「予感」を、口にしていました。
それが医師に明言としてではないながら肯定され、予感の確からしさを増す支えを得て、場の体温を上げて面談が終わりかけたとき、ふと生活の中で続いている具体的な滞りが思い浮かび、滞らせている原因として気づきかけていたばかりの気分について、浅い層から深い層まで、整理しながら口にしました。
それを聞いた医師が言ったのは、、、そこへと進めないでいる理由となっている、まさにその時間を、、、
「楽しめるといいですね」
「・・・ええっ!?」(⇦意外すぎてぽかんとし、おそらく声に出ててはいなかった、わたしの心の声)
ええと、、、それが嫌だからこそ、進めない、と気持ちを説明したばかりなのですが、、、
えええ!?!? と思いながら、次第に、ああ、確かに!と、思いました。
他にもたくさん、気持ちを動かし、あるいは鎮める、言動をもらった、実りの多かった面談だったのですが、あとで胸中で発酵したなかから浮き出たのは、その、「今を楽しむ」ということでした。
やりたくてやっていながら苦行ともなっている、原稿執筆。
気力体力も時間もそこにかけたいがために、足を引っ張る邪魔なことのようにすら扱って我慢し、あるいは先述べにしてきた、その他のたくさんのこと。
でも思えば、全て、自分の今、つまり今ここにしかない自分の人生の、かけがえのない一瞬として、味わうこともできるのです。
思うに、自分が憧憬と尊敬をもって眺める、充実した人生を送っているように見える知り合いたちは、一般的な言葉でいえば、「仕事も生活も」楽しんでいます。
一方のわたしは、「仕事」を象徴とする「価値」のようなものを、「意味」や「意義」のようなものを、、、、望む形のそれを自分は築いてこなかったことに気づいて病気に落ち、ゼロから創り直しているつもりであることが、強く背中を押し、、、、
双極タイプの生き方として大切な、遊びや、体験のバリエーションみたいなものを、、、切り捨ててきた。
・・・となんか、、、今日も執筆関連の作業をしていたせいで、、、物語り脳になっていますが、、、
今を楽しむ
繰り返し忘れ、思い出してハッとして、でもなかなかそうできない、できても続かない、、、
でも、おそらく、少しずつは、そうなれてきている、生き方。
まずはやりたいことの筆頭である「執筆」を楽しむことから初めて、生活のあちこちへと、広げてみたいと、思います。
2022年10月23日日曜日
双極性障害の人に適した「養生」(はんぱな内容になります、と予告)
いぜん長年に渡って書いていたブログ「あ、ひらおよぎ」では、双極タイプの人(合わない使い方を脳に強いる年月の疲労が「双極性障害」といわれる形の不調で現れる人)の養生になる暮らし方がどのようなものかを、神田橋條治医師の明察を元に、たびたび紹介していました。
ここ「猫の遠鳴き」でも同様な話題に触れてきてはいますが、「たくさん書いたよね」感があって重複を憂い、(「あ、ひらおよぎ」は閉鎖していて読めないのに)ここにはあまり書いていなかったことに気づきました。
双極性障害の人の人生にとって、とても大切なこと。
しかし、、まとまって書く気力のない今(原稿作業を終えたところで、作文脳が疲れてます)。。
はんぱな内容になりますが、、、いやそれだからこそ、主軸をひとつ。
「気分屋的に生きれば、気分は安定する」
神田橋條治医師がかつてあちこちで言い、あるいは記していた、双極タイプの人の生き方のコツです。その核となる、双極タイプの人の「脳」の本性についての明察は、
「窮屈が苦手」
窮屈な場面や考え方に長いあいだ縛られていると、脳が乱れだす。暴れだす。上がり下がりが大きくなる。脳の機能の現れとしての、感情や気分や思考、ばかりでない。実際の行動もまた、そうなる。
双極タイプの人は、その、暴れだしたりはみだしたりしがちな自分をどこかで識っているために、自律自制、すなわち「自縄自縛」することで、家族をはじめとした「普通」の社会の中に居場所を持ち続けようと頑張ることが多く、それはつまり「窮屈」な状態であるため、疲労が溜まりやすい、という仕組みもあるようです。また、自分もそうですが、類病の知り合いたちを見ていても、向上心や思い遣りや責任感が強く、努力や徹底を続け、人の思いを気にする傾向などからも、窮屈に陥りやすい。
今朝、滞っている家事について考えていたときの、考え方への気づきが、まさにその、後者にまつわるものでした。
自分に向けている言葉が、自分を窮屈に、ひいては不調に、追い込んでいる
分かってはいながら、繰り返し気づく、この自縄。
繰り返しながら、より深いところにある、自分の人生の流れを作ってきた(呪いの?)言葉たちに、気づいていっているのだろうと思います。
・・と、ここから具体例を出したり、他のいろいろな養生の話しを挙げたりと、よりよい記事に近づける努力は、、、窮屈なので今はやめて🤣
散歩に行きたいと気がはやるので、日が落ちないうちに出てきま〜す🐈
2022年10月21日金曜日
双極性障害のわたしにとっての、服薬の目的(その移り変わり)
ことを単純化して書きますが。。
「双極性障害」として括られる苦難を生きること、、、14年?
途中、薬を飲まなかった時期を、10年ほど挟みますが、、、
薬を飲む目的が、かつてと今とでは、大きく異なってきたことを、改めて思いました。
当初の自分にとって、あるいは発病当初に通っていた先の精神科医にとって、薬を使う主たる目的は、
「やりたくないことをやれるようにする」
でした。
・・より細かく言えば、「やるべき」と思うばかりで「やりたくない」との気持ちに気づいていなかったあれこれが、突然全く、やれなくなってしまったのが、発病の中身。そしてそれらを「やれる」ように、開きかけた気持ちの蓋を改めて押さえつけ、体が「べき」の命令のままに動くためにと、薬を使っていた。
それが今は、
「やりたくないことをできないようにする」
ために、使っています。てか、自分で調節して使っているなかで、そうなりました。
真逆!!🤣
・・分かりづらいですかねぇ🤔
では具体例。
薬を飲むことで・・・
☆かつて・・・拒絶の衝動をぼんやりとさせ、活力も引き出し、出社させる
☆このごろ・・ほんわかとさせ、切迫感を減らしつつ動けなくして、やらねばを諦める
さてこの先・・・
やりたくないことをやらないでも平気でいられるようになれば、そのわたしには、精神科の薬の服用は必要なくなるのだろうかと、思っています。
まだ予感レベルの段階ですけどね。
どーなるかな〜
・・このごろ服薬楽しいし、、、😅
(追記)
記事を書いたあと焼酎風呂に入っていて、ふと気づきました。
つまりは「無理をする、頑張る」ために飲んでいたのを、今は「無理をしない、頑張らない」ために飲んでいるのですね! ・・って、・・あれ? 少し前の記事でも書いていたような・・
どちらが正しい薬の使い方だ、という絶対的なものではありません。その時々の状態と状況に合わせての使い方があると思います。・・てことも、風呂の中で思いつきました♨️
2022年10月19日水曜日
「気」を大切にする。・・双極性障害の養生のコツ
漫画を読むのが好きです。
いくつかのシリーズは購入していますが、ほとんどは貸本屋で借りて読んでいます。
しかし、、、たくさんの人の手を渡った漫画本たちの発する、濁った気のようなものが、、、苦手です。苦手というか、嫌。
でもいちいち買うのも高いし、、、と、新刊本の貸し出しが解禁される曜日の、陳列時刻を狙って、店に出向いたりもしてきましたが、、、それも不自由。。そしていつ訪れるにしても、貸漫画コーナー特有の「気配」からして嫌で、いつも体感に蓋をして、出入りしていました。(あくまでわたしがそう感じているだけです)
気が向かない、体が動かない、ことを、どれも「やれない」日々が続いていたら、それらはみな「やりたくない」ことだったと気づいたと、少し前の記事に書きましたが、、、
この一ヶ月半ほど、あれほど通ってきた貸本屋に、漫画を借りに行けていないことに気づき、、、それはつまり、借りに行きたくなかったのだなと、改めて思いました。
神田橋條治医師の著書の、「コツ」シリーズのうち、「養生」に的を絞った本は、はじめの「精神科養生のコツ」から、直近の「「心身養生のコツ」補講51〜104」に至るまで、4冊あり、それとは別に「神田橋條治が教える 心身養生のための 経絡・ツボ療法」という本があります。
それらを読んできた中で感じる変化(神田橋医師の変化による記述内容の変化と、わたしの変化による受け止め方の変化、が合わさっているでしょうが)は、「気」というものが、指標としても手段としても、より中核となった、という点です。
「気」・・・
気、気分、気配、雰囲気、気持ち、気になる、気にする、気に障る、気を遣う、陽気、陰気、悪気、、
「気」を用いた言葉はたくさんあり、それらはどれも、明確には姿が見えないけれど、なくはないと誰もが分かっている、ものたちですよね。
精神的な病になっている人たちは、それらを我慢し、耐え切れなければ無視する暮らしを、長いあいだ続けざるを得なかった結果、気が滅入ったり、気が昂ったり、、、など、言葉はきついですが「気が狂った」状態に、なっているのだろうと、自分の体験から想像します。
そこで必要なのが、生体内外の「気」を、整える、清める、爽やかにする、静める、、、こと。
そのために必要なのが、気を感じられるように戻ること。
そのために有用なのは、あるかなきかに感じられる気を、あるものとして、大切に扱うこと。
てことなのかなと、思います。
双極性障害と呼ばれている機能の本質が、前回の記事に書いたように「増幅」だとするなら、気を整えた結果もまた、大きく顕れるだろうとも、思うのです。
てことで、、、とりあえず、今日も貸本屋へ出向くことを、やめてみました。
・・でも、、、あれこれやることも、双極性障害の人の養生のコツだからなぁ〜。。
工夫、創造、は、バルプロ酸が効くわたしには養生になると、神田橋医師に言われた。
どれも諦めず、きれいな漫画を安く楽しく読める手段を、探してみようと思います。
(「精神科養生のコツ」の「大幅改訂版」です。精神科の病について「精神科養生のコツ」にあった分かりやすくて有用な解説が、なくなっているのが残念です。「まえがき」に「その理由は、現在の医療で使われている診断名が客観的すなわち誰でも納得できる「見かけ」で付けられているので、本質を推測して診断する昔の「フィーリング診断」をいまも行なっているボクの助言では、みなさんに誤解を与えて、かえって治療や養生の邪魔になることを恐れるからです。」とあるのですが、、、改めて読むと、痛烈な皮肉が含まれてますよね)
2022年10月18日火曜日
「Monday morning disease(月曜の朝病)」がない楽さ・・双極性障害のうつの正体
お出かけの楽しい時間が終わり、中一日。
体の疲れは残るものの、原稿作業に戻りました。
精神的な不調に陥って精神科に通院しながらも、まだ会社に勤めていた苦しい月日。
休日が終わる時間はいつも強い寂しさと恐怖にいました。
使役馬が、きつい労働が始まる月曜の朝になると、不調になる。
それを、「Monday Morning Disease(月曜の朝病)」と呼ぶそうです。
初めて知ったとき、キリスト教文化圏では、馬も日曜は安息日なのかと感心した覚えがありますが、、、そう、日本では「サザエさん症候群」との名も聞きますね。
今の自分にそれがなく、遊びも楽しい、でも原稿作業も充実感があって好き、という状況が、ありがたく、楽だなと、改めて思いました。
そのことを書こうかなと思ったさきほど、、、、病気初期の、とくに月曜日の朝に多かったように思う、動かない体をどうにか動かして着替え、泣き崩れながら玄関まで廊下を這い進み、ときに家を出られときに出られなかった自分の苦しさを、、、、当時「うつ病」と診断されていた病の「症状」として捉えていたことを、久しぶりに思い出しました。
出社できない日が増えたと訴えるたびに、医師の処方する抗うつ薬の量も増えた。
しかし今になり振り返ると、それは「症状」と、言えなくもないけれど、だとしても、実際に「嫌」で行きたくなく、かつ、過労がこれ以上進むことを危ぶむ命が発する感覚を、増幅している部分を、「症状」と捉えていたのが、本当であり、またそうした捉え方が、世間あるいは医療では一般的だった、そして今も一般的だと、・・・今は分かります。(こうした場合に抗うつ薬を使うことを否定するものではありません。なんのために使うか、によります)
仕事が、職場が、嫌だったのに、その気持ちに気づいていなかった。
危険なまでに疲れていたのに、その疲労に気づいていなかった。
かつて記事に書いた気がしますが、この、双極性障害と呼ばれる病の症状の本質は、「増幅」機能だと、わたしは思います(そうそう、この考え方も、オリジナルです〜😄)。
無視してきた、あるいは蓋をしてきた、体感や、感情や、思いを、増幅して知らせてくれる。
感知し、受け止め、従って活かす、、、ができないと、その増幅度、レバレッジ、はさらに大きくなる。(薬で押さえつけようとすれば、症状もひどくなる。⇦この洞察はオリジナルではないです〜)
原稿を「仕事」と自称して暮らしている年月が思いのほか長くなり、諸条件の変化もあり、家計が底をつく日が迫ってきてはいますが、この「仕事」に出会えたことに感謝して、オフとオンとの双方が楽しい日々を、大切に、丁寧に、過ごしたいと思います。
2022年10月17日月曜日
双極タイプの私にとっての「旅」のタイミングと意義
二泊三日の 旅をしました。
楽しかった〜
双極タイプ(脳の蓄積疲労による心身の不調が、「双極性障害」との病名で括られる一連の症状として現れるタイプ)の脳を持つわたしは、旅をすると心身ともに元気と安定を増します。
・日常のしがらみを離れて、気ままな時間をもてる
・旅だから、と普段より自由な気分で行動や散財ができる
・新しい体験をすることで創造性が刺激される
・体を動かした疲労と満足感でぐっすり眠れる
・知っている人の目のない中で、ありたい態度で過ごせる
・普段食べない土地のものを食べることができる
自由、気まま、創造性、新しいこと、体験、祭り、人との浅目の交流、エネルギー発散、散財、、
双極性障害の初発のときもそうでしたが、旅をすると、治癒がぐんと進みます。
あるいはそうした、治癒が進む波みたいなタイミングで、旅が現実化します。
後者はおそらく、内なる変化(脳の中で自分を縛っている言葉たちが力を弱める=心が軽くなる)が進むと、いろいろな「べき」を優先して我慢していた、本当はしたかった「旅」に、実際に行く流れが起きてくるのだろうと思います。
そして旅をしたことで、「内なる」だった変化が、現実のそれとして体験でき、治癒の進みを認識できて自信も生じる。
旅先では自分の思い通りにならないことも多々あり、それがまた、引きこもりの年月の長いわたしには、自信が持っている拘りの、意味の小ささに気づく、いい機会にもなりますね〜
まあでも、あれですね。こうして理屈もあれこれつけられますが、単に、「楽しいことをすると元気がでるよね!」でも、十分ですね。
また旅をしたいです。
そのためにはお金を得なければとは思うけど、今もお金が減っていく一方なのに、「旅に出て散財して楽しかった!」と言えてる自分は、縛りが減ってきたのだなと、まざまざと感じます。
2022年10月13日木曜日
双極性障害のうつ症状がもたらすものの一つは、「行動療法」だという見方の発明
双極性障害の当事者としての諸々の体験と、治療や養生についての知識。
それらが増える一方で、自分オリジナルの、この病の見方や養生の方法を見出せないかという欲が、(下に紹介する、ともに双極性障害の当事者でもある作者の本がきっかけにもなり)わたしにはあります。
昨夜ふと、これは少なくとも「言い回し」としてはオリジナルなのではないか😍、ということを、思いつきました。
それは、双極性障害のうつ症状の、本人にとっての意味・意義のひとつは、行動を変えさせることで、自分に適していない文化を取り入れて生きてきたことに、気づかせる、、という見方です。
これまで、うつ症状について、どんなときにそうなるかを考えたり、そうなったときの体感を感じ、あるいは体感にぴったりとした言葉を得ることで、気づいていなかった感情に気づく、、、というような、、、わりと、精神療法・心理療法的な、意味・意義は、気づいて、自覚的に活用もしていました。
それから、「なんとなく嫌」とか「疲れる」とかの感情や体感が起きていたのに、無視を続けていた自分に、「そっちへ進み続けてはいかん!」と、停止や方向転換への強制的な力として、症状は機能しているとは、思っていました。
その上で、今回の不調で新たに思ったのは、不調で動けなくなった、できなくなった、ことのほぼ全てが、実はやらなくてもいいこと、やる優先順位が、自分にとってはほんとうは高くはないこと、だと感じたのです。
病が始まった十八年(?)ほど前を思い返してみても、もっとも力がでず、でももっとも出そうと頑張り、その押し合いへし合いの中で恐ろしいほどに苦しんでいたのは、当時勤めていた会社に、出社する、ということでした。
出社できなくなったことで、出社してテンション高く働いて稼いで、、の流れの中で目を瞑ってきていた、自分の、その仕事を続ける上での自信のなさや、やる気のなさ、強い疲労、、、などに、初めて気づいていった。そして一度しかない自分の人生をなにに使いたいか、はじめて本気で考え、軌道修正を果たした。時間もエネルギーも最優先して注いでいた先の「会社」あるいは当時の「仕事」が、行けない体調になったことで初めて、自分が人生をかけるに値するものではないと、気づいた。(かなり単純化して書いていますが)
今回の不調でできなくなったことは、もっとずっと、自分の身の中心部分にまで染み込んでいた「教え」たちでした。それらのひとつひとつは、「やらなくていい」とか、ましてや「やるべきではない」、ということではないけれど、優先順位上位のものとして拘り続けるほどのものではない。それが果たせないことで人生を不幸せにするようなことでもない。そしてそれらに拘泥し続けてきたことで、人生が歪んでいた。
できなくなって何ヶ月も経って、次第に、それらって、要らない刷り込みじゃなかったかと、思ってきたという流れは、これまでの記事で書いた通りです。
そしてこの一連を振り返ったとき、これは、行動を変えることで初めて自身の内なる言葉、内なる文化に、気づいたという、行動療法の体験だったのではと、思ったのです。(行動療法、の意味を、知っている訳ではないけれど、きっとこういうことだと思うのです)
その主体、指導者みたいなものが、一般的には「症状」と呼ばれ、それを消そうと、当事者も医療者も奮闘努力することが、病気に対して「前向き」、、、みたいに思われているのだろうなと、、、自分の体験を振り返りつつ、思いました。
まあ口でいうのは簡単ですが、、、症状を信頼するのは難しいことでもありますよね。これまで信じてきた価値観をひっくり返すことでもありますから。
またしても整理し切れていない気づきを、そのままごちゃごちゃと書きました。
症状の叡智、みたなあれこれのうちのひとつについての、新たな見方を、表現を、クリニックの医師の指導や見守りや誘導が作った流れの中でとはいえ、自分で得られたことが、、、なんだか嬉しいです🐱
(坂口恭平さんの、躁うつ関係の、読んだもののうちいくつか。真ん中の本は神田橋條治医師の「語録」がたくさんでてきます。坂口さんは生き方がすでに躁うつ的でユニークで、参考になります。)
2022年10月11日火曜日
草間彌生さんにとっての「水玉」、神田橋條治医師にとっての「自由連想」、わたしにとっての(双極性障害の体験についての)作文
久しぶりに朝から執筆に励めました。
わたしにとっての双極性障害という病は、人生の流れが、自分が行きたい方向から外れていることを強烈に警告する、「サイン」(「症状」も、英語では「サイン」ともいうのかな)でした。
しかし、どこがそうなのか分からない、でも、それがある気がして、そこに向かっていないからこそ病という強制ブレーキがかかっていると思える、人生の目標。生きている意味。それを果たした、あるいは、果たそうと努力できたなと思えることで、いつか納得して生を閉じられると思える、生き方。
病や症状を敵視し消そうとするだけの姿勢から、病を信頼し、症状の声に耳を傾け、軌道修正・進路指示の指標として尊重する姿勢に移っていったことで、やがて、やりたいことが分かり、同時に、病も終わりました。
やりたいことは、(手始め&具体的な形としては)双極性障害の体験を、文にする、ということでした。
それを九年続け、仕上がらなくて諦め、絶望して死のうとし、でも死ねず、精神科病院に入院し、退院し、そして思いがけないことに、再びそれをやっています。
神田橋條治医師の最新著書『「心身養生のコツ」補講51〜104』の終わり、「第104講 草間彌生さんに思う」が、とても心に残りました。
草間さんが「水玉」に、神田橋医師が「自由連想」に、出会ったことが、「ハチャメチャ」だった人生を統合し、納得のある流れを作った、というような内容。
わたしのそれが、双極性障害に関する作文だったと、改めて感じ、出会えた僥倖を思いました。
やりたくてやっているからこそなのか、やりすぎて疲れて体調を崩してばかりだけど、復活したらまず始めること、始めたいことであり、これさえできていれば気持ちが安定すること。
薬がごく少ない量で済んでいる大きな理由のひとつが、この、執筆をやれている毎日というところにあることは、間違いありません。
体調も、家計も、問題山積だけど、書く時間が持てる日々が続くことを願って、信じて。いつか出版され、読んでくださった方の感想が聞ける、読める、日を夢見て。
にじりにじりと進んでいきたいと思います。
(神田橋條治医師の「コツ」シリーズのうち、「心身養生のコツ」として3冊目の本です)
2022年10月10日月曜日
内面が変わると世界が変わる、という体験
うまく伝えられる自信もコンパクトに書ける自信もありませんが、今の気持ちを書いておくことも、なにかに資する気がし、書いてみます。
このところの記事で書いているように、バルプロ酸を追い飲みして、やるべきこと、をこそできなくして、それでもやりたい、やれること、だけをしている日々。
昨日、とある趣味の、どうしても行きたい、楽しみにしている定期会合に参加し、そのあとで、避けていた実家に寄る気になり、実際に寄りました。
終えて自宅へ帰る車内でのこと。
それら両方の場所で、自分の気分が、在り方が、これまでと違ったことに、気づきました。
感じたことや思ったことを言うのに伴う吟味やためらいが薄かった。・・ていうか、、
これまでになく、寛いで喋って動いて、疲れが薄くて楽しかった。・・ていうか、、
うん、「解離」している感じがほぼなかった。
一言で表すなら、「気楽」だった、かな〜
気楽で、楽しかった。
ここ二年ほど母への反抗期にいたのでは、と気づいたのが、半年ほど前。
それにより急に生きやすくなるかと思ったら、それから、長い停滞に入りました。
その停滞を「うつ状態」と思っていたのですが、、、
これまでやってきたことのあれこれなのに、なにも決められず、気力が湧かず、できない。その外見上は「うつ状態」に良く似ていながらも、どこか違う。もしかしたらこれは、「母」から「自分」へと、言動を選択するときの拠り所とする価値基準や、幸せにする対象の優先順位の、変化の作業を始めた脳が、何十年も使ってきた情報の繋がりの組み替え作業をしたり、自らの欲求に基づいて生きていなかった長い年月に蓄積していた疲労を癒したり、している、見えない作業と休養の期間なのかも、、、、というような、、、、希望的な思いが生まれ、、、それはやがて少し、「予感」に変わっては、いたのですが、、
それらの思いや予感が「正しい」のではと、信じる方向に、ぐんと進めた、体験でした。
人と会っていて、のびのびしていられた自分。
最ものびのびできる場所であるべき家(族)の中で、常に危険の兆候を察し、親の機嫌の行方を推測しながら、自分の言動をコントロールしてこなければならなかった、幼い頃からの自分。
その体感を世界に映し出して生きてきた、自分。
今朝目覚めて昨日の体験を思い出した時に、人生であんな時間を、あんな自分を、過ごせたことに、感動を覚え、多くの人にとっては子ども時代からそうである、当たり前の状態ではあろうけれど、この人生でここに至ることができたことに、深い幸せを感じて涙が流れ、ここに至るまでを抱えてくれた周りの人たちの存在に思い至り、感謝を新たにしました。
・・・ああなんか、やはり、文字にすると、体験の味わい、豊かさ、がまるで表現できませんが、、、
なんかね。
革命だったのです。
これからの人生、楽で楽しい時間が増えるであろうことを、予感し始めたことも含めて。
すんません、こんな文で😅
2022年10月8日土曜日
神田橋條治医師考案の、「五本指いい子」と「焼酎風呂」
急に寒くなりましたね。
・・という書き出しで、昨夕は「自分軸で生きる」についての記事を書いたのですが、、、途中からごちゃごちゃとしてきて、諦めました。
・・てことで改めて。
急に寒くなりましたね。
夏の間はシャワーで済ませていましたが、久しぶりに浴槽に湯をはり、ゆっくりと入っています。
そして風呂のお供は、これ。
「焼酎風呂」は邪気(病の力と、それに抗い、あるいは折り合いをつけようとする、生体の力、の押し合い、みたいなもの)を抜くため、「五本指いい子」は(父親を主な由来とする)PTSDの緩和のため、鹿児島の伊敷病院の診療室で先生に勧めていただきました。
わたしはアルコールに弱いので、「焼酎」を風呂の中にごく少量だけ入れ、香りの中でゆったりと浸かり、ほんわかしてきたところで「五本指いい子」をするのが、これから春まで続く夕暮れの楽しみです。
「焼酎風呂」には(やんわりとした)リラックス&心身スッキリ効果を感じ、布団の中でやることの多い「五本指いい子」は、リラックスして眠りに落ちる(かなり強い)効果を、感じています。
そうそう、診療のあと、滞在していた鹿児島のホテルの大浴場で、寝転んで湯に浸かれるコーナーで、さっそく「五本指いい子」試しましたが、やりながら寝落ちしかけてびっくり。それ以降ずっと、眠れないときの眠気導入には軽めの睡眠薬と同じくらい効くのではないかと感じる(睡眠薬を飲んでいないので、確かではないけど)、自前の眠り薬です。
てことで、ごちゃごちゃ書かずに終わりにして。
風呂入れて、焼酎たらして、入ってきま〜す🐵
(↑と書いたけれど、諸事情あって、シャワーだけ浴びてきました。。)
(↓わたしのPTSDは初診での見立てより頑固だったとのことで、後日、この本を読んでのタッピングの独習を勧められました。これは効きました。いわゆる自家薬籠中の技術となりました。著者の「マコ・川村」さんにお礼を述べたいです)
(主な関連記事はコチラ)
2022年10月6日木曜日
精神科の面談室で医師に話すこと、世界に向けて話すこと
通っているクリニックの面談で精神科医から言われたことを、長い年月、ノートに詳しく記してきました。
それがこの一年、まるで書いていません。
書いていた自分の中には、思いがけない考えを知った喜びがあり、また、それを書いておくことで、いつか世間に向けて紹介するときに読み返せる、という思いもありました。
一方の、今の、書かない自分の中にある思いを、はっきりと掴めてはいないのですが、うっすらと感じる一つは、書かないことで、「今ここ」が全て、の時間として、面談を十分に体験したい思いも、あるようです。
さて、ときおりあるのですが、直近の面談でも、いろんな出来事やら思いをワーッっと話し、医師の(主にはポジティブ面の)伝え返しを得て、気分が上がり、、、しかし帰宅してしばらくしてから、ひゅっと、落ちました。
小さなきっかけがあったので、そのためと思っていたのですが、、、
あとになってふと、面談の中で、対坐していた医師に、日頃の助言に対する「批判」とでもいうのか、下に書いたようなことを、自分が言ったことを思い出し、それは次第に、鮮やかで印象深い場面として、繰り返し思い出されました。
「先生の助言や指導や誘導は、こういう見方や人生が良いという、先生の好み、に基づいているように思う」
否定の気持ちは薄く(ない、とも言い切れないけど)、また、医師もわたしも信を寄せる、神田橋條治医師の直近の本にも、自分が患者に、自分の好みの幸せの形を押し付けている、というようなことが書かれていることも、自分から話題にしたのですが、、、
それに対して医師から返された言葉も、含むもの豊かで、実りもあるものでしたが、その、自分の発言そのもの、・・場の権威である医師、メリットを受けたい相手、良い関係でいたい知り合いに、大きく括れば相手から自分に向けられた言動への批判でもあるフィードバックを、伝えられたことが、自分にとって「革命」と、思えてきたのです。
この面談の場を、どうしたものにしたいか。
一年ほど前に、自分は、「意見や異論を口に出す体験」を試せる場にしたいと、表明していました。
それが合意されていた場に、やっとこぼれたような、ちっちゃな一言。
それはでも、異論を述べることが、相手の自分への態度を批判することが、もっとも危険だった親に育てられていた幼少期から続いていた、自分の大人への在り方の、大きな変化だったように、思い至ったのです。
小さな一言は、世界に向けて異論を、つまりは「わたしはこう感じる、こう思う」と「わたし」を中心として表現する、第一歩に、なったように思いました。あるいはすでに、「世界」に向けて表現したのだと。
ちょっと話しが針小棒大と感じるかもですが。。
まあ、小さな針と大きな棒は、本質は同じ、相似形ですからね🐱
(「神田橋條治医師の直近の本」として話題にしたのはこの本ですが、、、書かれた箇所が見つからず。。あれれ。。)
2022年10月5日水曜日
『海街ダイアリー』と『詩歌川百景』(ともに吉田秋生さん)に泣く日々
漫画が好きです。
本の情報を載せることも多いこのブログ。
なのにこれまで漫画については触れていなかったように、ふと思いました。
吉田秋生(あきみ)さんの『詩歌川百景(うたがわひゃっけい)』。山間の温泉旅館を中心として、多彩な登場人物たちの生い立ちや思いが交錯する、わりと複雑なストーリー。次巻はまだかな〜、と思いながら、既刊2冊を再読したら、それと物語が繋がっている、吉田さんの前作の、『海街ダイアリー』シリーズを、久しぶりに再読したくなりました。
すごく好きな作品で、何度も読んで、是枝監督による実写映画も複数回観ているので、流し読み程度のつもりでしたが、、、、面白い。。
結局、随所で感じ入り、ときに大泣きしつつ、ゆっくりと、読み進めています。
面白い漫画に出会えた喜びと、日常にある、でも掬って見つめることの難しい、情景や心の動きを、表現して娯楽として味わわせてもらえていることのありがたさ。
そして今回の読書体験では、自分がそれら登場人物たちの心の機微を、自分の中にもある(あった)と分かる強度の共感をもって、かつてよりずっとありありと味わえていることに、、、、なんていうか、、、自分の成長を感じたのです。
自分としては、ただ大人になったからといって捉えられた訳ではない、「双極性障害」というややこしい病を得たことをきっかけにして見つめ始め、少しずつ蓋がとれ、あるいは視界が開け、中年になって分かりつつある、様々な思い。自分を、自分の生い立ちを、身近な人との関係を、したくなくても見つめ直さざるを得なかった、幾多の苦しい時間を経て、哀しみとともに知っていった、機微。
吉田秋生さんは代表作のひとつ『BANANA FISH』を描く過程で、物語の主要な舞台であるニューヨークを、(ネットでちゃちゃっと映像を見られる時代ではまだなかったにもかかわらず)一度も訪れることなく、「これぞニューヨーク!」と読者が感じる景色を空気感まで込みで描き切ったと、、、どこかで読んだことがあります。(『カリフォルニア物語』における、カリフォルニアについての逸話だったかもしれません。。すみません)
人の心理も、そういう、いわば想像を逞しくすることで、知り得たのかな〜。それとも自分の中にどこまでも潜り、普遍的にある小さな声たちに耳を傾けて得た、多面的な思いを、言葉と絵にして、多彩な登場人物たちに、振り分けたのかな〜
原稿作業の休み時間にも我慢せず読みましたが、今日の作業を一段落したので、これからまた、続きを楽しみたいと思います。
たくさん泣いて、今夜も内側から、楽しく浄化です〜
(実の両親を亡くした少女「すず」が、異母姉妹に引き取られ、鎌倉を舞台とした物語が始まります)
2022年10月4日火曜日
「精神科病院への入院体験をもとにした小説」の執筆状況・・とか
☆浅いながら不調が続いているなかでも、やりたくてやれること。
☆不調が消えたときに、やりたくて注力すること。
いずれも「精神科病院への入院体験をもとにした小説」の執筆です。
一通り書き切って脱力放心していたとき、知人から全編に渡っての指摘をもらったことで奮起し、改稿を続けていましたが、それも夏前に終えました。
ほっとしたのも束の間。。ひとつ前の章を読み返したら、あまりに出来が悪く、、、(最終章のできがよく、つまり、長く書いている間に上達したので、今の自分には前の章のあらが目立つ)、、、いまはその章の、全編を見渡しながらの修正を、続けています。
今日は、強烈な苦悩苦痛の体験の、つまりはもっともドロドロしていた期間の、最後ともいえるエピソード部分の(修正稿の)見直しを終えました。
(いつか本になった時に初見で味わって欲しいので、内容は書きません)
小説家であり双極性障害の当事者でもある絲山秋子さんが、病とのつきあいについて書いた本の中で、症状がきつかったときの体験を書くと、思い出すことで、書いている今の症状が悪化するために、書けない、、、とか、おっしゃっていました。
いぜんお話しさせていただく機会のあった、いく人かの出版社の編集者の方も、精神的な病の当事者が体験を書くことの難しさの一つとして、同じことを挙げていました。
自分はこの双極性障害がらみのきっつ〜い体験を、あたかも自ら飛び込んだ(あるいは迷い込んだ挙句の)「冒険」や「修行」のように捉えている部分もあり、困難を振り返って文章にする作業も、冒険譚やら修行譚を書くような気分が強く、苦しいほどに使えるエピソードであるかのような、不思議な優越感、不思議な楽しさも、感じています。
それでもやはり、その時の思考を思い出し、なぞり、当時の体験が今の体感として実感されるまでに潜り切り、さらにはそのまま、そのときは必要でなかった、それらの体験を読んだ人の体験に移すための言葉たちを、探し続ける必要も伴う作業は、、、、、おそらく絲山さんや編集者たちがおっしゃったように、今の自分を、痛めつける時間だとも思うのです。
自分がそうした行為で代表されるような、自身の心身を痛めつける作業(体の方も、目や首や背や腰が疲れたり、運動不足が続いたり・・)を続けていることに、充実の実感をともなう高揚を感じてきましたが、、、このところその、いわば、「目的のために命を削る」行為は、、、残りが少なくなってきた、今を、現実を、人との関わりや旅の楽しさを、味わえる月日を思うと、、、終わりにしたいなと思い始めてもいます。
そう、これは、劇作家で演出家の鴻上尚史さんが著書の中で、作詞家やミュージシャンでも精神科医でもある北山修さんとの対話を引きながら語っていたことなのですが、創り手によっては(あるいは読者や視聴者によっては)作品や創作のための人生、を生きているけれど、お二人はずっと、人生のための作品や創作、でありたくて、また、そうやってきた、と言うのです。
わたしも、創作や作品のための人生、であることに高揚を覚えていたのを、今後は、人生のための作品、人生のための創作、に改めてゆきたい。
・・なんだか話しが逸れてきました😅
苦痛を書くのも充実して楽しかったけれど、それが山越えして、ほっとして、、、チョコとアイスをたくさん食べました〜😍
自分に厳しく生きてきたことで、生きる方向を誤り、病の力を借りてやっとの思いで修正し、、、しかし、遅れてしまった人生を巻き返すために、結局は自分に厳しく生きてきた。
その足跡はこれまでの自分にしかたのなかったものとして、感謝とともに受け入れて。
これからは自分に甘く、「楽しい」にこそ欲張りに、生きていきたいと、思いました🐬
(面白くて養生のためにもなる本でした。自分の見方で、言葉で、病や養生を語っているところに、すごく感心し、尊敬を覚えました)
2022年10月3日月曜日
やらない、を、やれている・・?
今年はこれまでになく体調が安定している、と思える一方で、色々なことができていません。
今の自分の心身には重すぎるからできないでいるのに、できないことで自分を「だめ」と感じてもいる自分。。
健康で元気だった頃の「できる」自分を基準に、現状を評価しているから、「できない」と捉えて苦しいのかな、、、と思ったのですが、、、
それもあるだろうと思いつつ、いやもしかしたら、と思い返す「見方」が、より本質をついているのかなと、感じてきてもいます。
それは、今年は、
「やらない」を「やれている」
のではないか、ということ。
★眼科に健診に行かなくちゃ、と思っていながら、行けない。
★運動しなくちゃ、と毎日思うのに、行けない。
★実家に顔を出さなくちゃと思うのに、行けない。
★家の周りをきれいにしなくちゃと思うのに、できない。
そのほかにも色々ある、でもどこか似た、「やれない」まま過ごしていること。
それらはみな、「やりたいこと」ではなく、「やるべき」こと、、、もっと深く潜って考えると、育った家庭の中で親がわたしに、あるいは親が自身に、「良かれと思って強いてきた選択や行為」のようにも、このごろは思うのです。
ただ、、神田橋條治医師が電話診療でわたしに言ったことですが、人はなにか行為ができること、「can」が増えることが、嬉しくもあるので、、、
わたしは、(本当はやらなくてもよいのに)やるべき(と刷り込まれていた)ことをやらないことが、できるようになってきている。
なんか、理屈を捏ねくり回すことが好きなわたしらしい解釈ではあるのですが、、、これだと「can」ですよね。
迷いながらも選択としてかしかたなくか続いている、「やらない」が増える日々。
「やるべき」ことばかりにエネルギーをとられて水すらやっていなかった「やりたい」の芽が、ちょびっとずつ伸びてくるかもと、、、
それがこの物語の、最新の予感です。
2022年10月2日日曜日
うつの波から回復してきた指標・・・好奇心とか欲とか・・
行かなかったけれど、友だちが誘ってくれた遊びに行こうかなと、いう気になりました。
行かなかったけれど、漫画を借りに出かけようなかと、いう気になりました。
行けるあては今のところはないけれど、遠くに住む友だちの家に遊びに行きたくなりました。
買える予算も気力も今はまだないけれど、自転車やバイクを欲しくなりました。
全ての行為が億劫に感じ、それを「投げ出していいんだ」と分かるまでが、いつもひと苦労です。
投げ出せず「苦しい中での休息」だったのが、やがて投げさせて「心地よさのある休息」へと変わり、安定を戻しつつもそのまま休みを多めに取り続けていると、こうした、前向きとでもいうのか、「行動への欲」みたいな衝動が、息を吹き返します。
行動を為すまではいかないけれど、うつ状態、低い波、から回復してきた、ひとつの指標です。
このままハイに突入することは、気分としてはわずかにあっても、行為としては、今のわたしにはあまりありません。双極性障害の特徴に慣れたこともありますが、周りで病気を理解してくれている人たちが早めに忠告してくれる(というより、思いやって言葉をかけてくれる)のも、反動を穏やかなものに抑えているように思います。
(ハイのままに動いてはいけない、という意味ではありません。ハイはハイのエネルギーをさっさと消費したほうが、標準の、つまりは楽な、心身のレベルに、早く戻ると思います。そのことはまた別の機会に)
・・と、達人と化したようなことを書きながら、、、今日も無理せず短めにしようと思っていた原稿の改稿作業を、長くやりすぎました。。「調子に乗りやすい」というのも双極タイプの人の特徴だなと、改めて思います。
2022年10月1日土曜日
双極性障害とは学習障害? ・・双極タイプの人は「諦めない人」「懲りない人」
「うつ」、、、というほどひどくはない、でも気分と気力の「高い」「普通」「低い」時期のうちの、「低い」時期を迎えている今。
低い時期を迎えると、いつも、そうなるまでに疲れを募らせた、「高い」や「普通」の日々の自分の暮らしぶりを、振り返ります。
そして毎回思うのです。
「こんなに疲れるまで、また頑張っちゃったなぁ・・」
なんど思ったかしれないこの気づき。
もはや「気づき」というのも、語意として合わない。。
そしてふと思ったのです。
「双極性障害」の本質は、「学習障害」なのではないかと。
心身の疲れ、についての学びのなさ、ばかりではありません。
なにかに入れあげて邁進し、挫折しても、また立ち上がってなにかに邁進する。
それは、事業だったり、趣味だったり、恋愛だったり、、、
それら、良くも悪くも、、というか、、結果から振り返ると「良い資質」になることも「悪い資質」になることもありえる、いずれにせよ「学習しなさ」が、気分や気力の波や、人生の大波、という、この病がもたらす多層の困難の、かなり深いところを流れているように、思ったのです。
思いつきのまま、さして吟味せず書いていますが、、、、
そーいえば、神田橋條治医師の初診で、双極性障害の人の人生は、病で沈殿して穏やかになって暮らし続ける、・・「とはならない」、というようなことを、言われました。それを言われて嬉しかったのですが・・・
つまりそれも、パンチを受けてダウンしても、また立ち上がる、立って勝負に戻る、みたいな、、、
諦めない人、懲りない人、つまり、学ばない人、ですよね。
諦めないほうが人生に資することはそのままに、学んだほうが楽になるところは苦手さを自覚して学んで、あるいは(本当の「学習障害」の人の対処がそうであろうように生活を)工夫して。
なるべく「普通」の日々を増やしていきたいと思います。
(などと、オリジナル、を創作して表現することで満足を得るのも、双極性障害のうちのバルプロ酸が効く人たちの特徴、かと思っています)
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まずはテレビ番組の紹介です。 Eテレ 2022年12月7日(水) 午後8時00分 〜 午後8時30分 「 ハートネットTV 『もう一度、外へ 精神科病棟閉鎖までの日々』 」 (↑番組公式サイトへのリンクです。 再放送もあると思います) 「慢性期病棟」を「閉鎖」する「精神科病院」を...
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数年前、原作を読んだ知り合いが感想をブログに書いたなか、「ラストは涙が止まらなかった」とあったのを、印象深く覚えていました。 せっかくなのでわたしも原作を読みたいと思いつつ、別の知り合いが「映画館で見て感動した」と語っていた覚えもあり。 原作と映画。両方という手もありますが、...