通っているクリニックの面談で精神科医から言われたことを、長い年月、ノートに詳しく記してきました。
それがこの一年、まるで書いていません。
書いていた自分の中には、思いがけない考えを知った喜びがあり、また、それを書いておくことで、いつか世間に向けて紹介するときに読み返せる、という思いもありました。
一方の、今の、書かない自分の中にある思いを、はっきりと掴めてはいないのですが、うっすらと感じる一つは、書かないことで、「今ここ」が全て、の時間として、面談を十分に体験したい思いも、あるようです。
さて、ときおりあるのですが、直近の面談でも、いろんな出来事やら思いをワーッっと話し、医師の(主にはポジティブ面の)伝え返しを得て、気分が上がり、、、しかし帰宅してしばらくしてから、ひゅっと、落ちました。
小さなきっかけがあったので、そのためと思っていたのですが、、、
あとになってふと、面談の中で、対坐していた医師に、日頃の助言に対する「批判」とでもいうのか、下に書いたようなことを、自分が言ったことを思い出し、それは次第に、鮮やかで印象深い場面として、繰り返し思い出されました。
「先生の助言や指導や誘導は、こういう見方や人生が良いという、先生の好み、に基づいているように思う」
否定の気持ちは薄く(ない、とも言い切れないけど)、また、医師もわたしも信を寄せる、神田橋條治医師の直近の本にも、自分が患者に、自分の好みの幸せの形を押し付けている、というようなことが書かれていることも、自分から話題にしたのですが、、、
それに対して医師から返された言葉も、含むもの豊かで、実りもあるものでしたが、その、自分の発言そのもの、・・場の権威である医師、メリットを受けたい相手、良い関係でいたい知り合いに、大きく括れば相手から自分に向けられた言動への批判でもあるフィードバックを、伝えられたことが、自分にとって「革命」と、思えてきたのです。
この面談の場を、どうしたものにしたいか。
一年ほど前に、自分は、「意見や異論を口に出す体験」を試せる場にしたいと、表明していました。
それが合意されていた場に、やっとこぼれたような、ちっちゃな一言。
それはでも、異論を述べることが、相手の自分への態度を批判することが、もっとも危険だった親に育てられていた幼少期から続いていた、自分の大人への在り方の、大きな変化だったように、思い至ったのです。
小さな一言は、世界に向けて異論を、つまりは「わたしはこう感じる、こう思う」と「わたし」を中心として表現する、第一歩に、なったように思いました。あるいはすでに、「世界」に向けて表現したのだと。
ちょっと話しが針小棒大と感じるかもですが。。
まあ、小さな針と大きな棒は、本質は同じ、相似形ですからね🐱
(「神田橋條治医師の直近の本」として話題にしたのはこの本ですが、、、書かれた箇所が見つからず。。あれれ。。)
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