このところの急な雪、雨、風。
遠くで起きた大きな地震なども含めて、気象が荒れるときは体調も荒れがちです。
それとは関係なく「オフ」にすると落ちる、を繰り返している私。。
・・なぜ楽だったり楽しかったりするはずのオフにばかり落ちるの?
今日はそこから気づいたことを書きます。
双極性障害になり、勤めをやめてから、収入を得る仕事はできていませんが、寛解してからはずっと、病気と寛解の体験を書いていました。再発して精神科閉鎖病棟に入退院してからは、その体験をもとにした小説を書き続けており、それをする日は私にとっての「オン」の日です。
作業の中の「創造」の部分はとても苦労するし、そのために参考文献を読んでは情報の整理を続ける部分は飽きてくるし、パソコンの小さな画面を見つめ続ける目は疲れ、キーボードを叩き続ける腕に肩はこり、、
でも、それらに没頭するオンの日は、嫌いではありません。
というか、心身の健康のためにオンの日を続けている感じです。
しかし、脳にせよ目や腕にせよ、同じ機能を使い続けると、疲労がかさみ、体力も気力も低くなり、進みも質も落ちてしまいます。なんといっても再再発は避けたい(初発は地獄の苦しみと思ってたけど、再発はその100倍は苦しかった。。)
なので、オフを入れるようにしているのですが・・・
なぜオフにすると、落ちるのか。
「溜まっていた疲れが、一気に出てくるのだろう」というのは兼ねてから気づいていたのですが・・
このごろ、なるほどそうか、と思うようになったのが、オフの日は、やりたくないけどやらねばならないことをやる時間があるからではないか、ということなのです。
オンの日は「今日は執筆に集中する」ためにと、それ以外のことを全て投げ出せるのです。でもオフの日は、オンの日々に後回しにしていた、あるいは気持ちが原稿に向かっているために気づいていなかった、宿題的なことが、あれこれ頭に浮かぶ。あるいは急に大きな課題として(針小棒大的に)頭を占める。
・・今日はオフだからなぁ、あれをやった方が良いよな、でも、やりたくない・・
やりたくないけどやったほうがいい。
でもやる気が起きない。
でもやったほうがいい。てかやらなくては。
でもやりたくない。。
・・まあ、やれないのは当然なのです。双極性障害は脳の病気で、脳が中心となって作業する諸々(苦手な対人関係がいい例)への力が少ない。あるいは安定しない。なのに、オンの日は目一杯、脳を働かせていて、その疲労がかさんだあとから、やっととっている、オフなのですから。
(病名の「双極性障害」「躁うつ病」「双極症」「双極性感情障害(気分障害)」などよりも、オリジナル名称「気分気力失調症」「気力失調症」のほうが、実体に合っていると感じています。)
その、「やりたくないけどやったほうがいい、でも・・」の迷いグルグルから落ちてゆく、辛さ。気分悪く耐えがたいそれから逃れたくて、(普段は100mg製剤 1錠 /日の)バルプロ酸ナトリウムを割錠して破片を作り、そのうちの芥子粒ひとつほどを頓服するのです。
血中濃度の変化からの推測でしょうか、バルプロ酸に即効性はない、それは気のせいだ、と以前通っていた先の医師に言われていましたが、そんなことはないですよね。飲んで20分ほどすると、頭の中の堂々巡りの言葉は穏やかになり、体は緩み、眠気もでてきて、眠りに落ちる。
そして、しばらくして目覚めても、もう、体はだるく眠く、なにかやれる状態ではない。
あれ? つまり・・・
今の私の頓服の使い方は、「やらねば」と思っているけどやれる気力体力がなくて「やらない」を選択したいけれど、思いが割り切れないときに、「やれない」体調にしてやらなくて済むようにするために、「薬」でそうしている感じなのです。
そう思って振り返ると、そもそも「症状」からして、本当はやりたくない、力が湧かない対象だけど、やらねば、やったほうがいい、、、というような、、理屈(言葉、アイデア)で無理に体(脳、行動)を従えさせようとしているときに、それをしないですむ理由、言い訳として、体の表現として、創造されているようにも、読めるのです。
つまり、今の私にとって、症状も、薬も、やらねばならない(と考えている)けど(体としては)やりたくないことをやらなくて済むようにしてくれている。
少なくとも薬には(そしてもしかしたら症状にも)逆のパターンもありますよね。気分や気力の安定、力、がないけれど、それらを無理にでもやるために、使う類の。(症状としては、躁や離人に、その例が見出せるのかな)
てなことをつらつら思ううちに、ならばいっそ、頑張ればやれそうなことも(本当はやれないんです。だから寝込んでるんです)「今日はしない!」と決めてしまえば、症状や薬の、その部分に対処するための部分は、要らなくなるのではと思いました。
というアイデア、半ばアイデア止まりだったのですが、、そのあたりを、通院先の先生や、病気情報を交換している友だちと話しているなか、今朝、不調の中で思い出して、試すことができました。
目覚めた布団の中、あることを今日やるかやらぬかに迷う思考の強い流れが続き、気分の混乱と苦痛が悪化し始めたなか、薬を飲むかどうしようかも迷い(飲めば投げ出せて楽にはなるけど、芥子粒量追加でも、終日ぐったりは免れない)、上記のアイデアを思い出して、、、飲んだらそもそもやれない、つまり薬を飲む=やらないってことなんだから、やらないを先に決める! と、してみました。
そうしたら、、、言葉が減り、体が緩み、、そのままうとうと。。起きてからは布団から出て、のろのろと、これが今日の自分に合っているのだろうとまあまあ思えるペースで、ご飯を食べたり本を読んだり、できています。
話がグルグルしてすみません。
つまり、薬による心身の重さという苦労の部分なく、薬を飲んで得たかった効果は得られた、って結果です。
いつもうまく行くとも思いませんけど、とにかく、今日はうまくいった。
そして改めて思ったのが、私にこの病気が生じたこと自体、本当は辞めたかったのだと、極めて嫌になっていたのだと、病気の長い経過の末に分かった、そして本当は初めから分かっていながら気持ちに蓋をしていたと振り返る、当時の勤めを、とめる、やめる、口実として、生じた(と物語れる)ものだろうなということです。
減速すべき状況を無視してアクセルを踏んだら非常用自動ブレーキがかかった。
・・みたいな?
あれ? なんか、いい感じの喩えに、収斂しました〜🐥