オフにすると落ちる、の繰り返しから逃れようと、計画的に土日をオフにしてみました。
気晴らしをしたいと思いましたが、、、ちょうど届いた本、「ともにある 神田橋條治 由布院・緩和ケアの集い」シリーズの3巻を開いたのが、運のツキ😄 (「ついていた」ほうのツキですかね) 丁寧に、かつ一気に、読みました。
このシリーズは、おおすじ、癌で余命わずかと見立てられた人を、医療の場でサポートする職の人が、自分が経験した(している)患者さんとのかかわりを、温泉旅館の一室で、同職者のもと神田橋條治医師を相手に話し、神田橋医師が感想や意見を述べる。その様子を、丁寧に文字起こししたものです。
十数年来の「神田橋ファン」で、著書は業界誌や小冊子も含めて、ほぼ購入し、繰り返し読んできました。でもこのシリーズは、なぜか読む気にならないまま年月が経っていました。
神田橋医師の診療を実際に受けるようになって、なぜか読む気になり、1巻を開いたのは、半年ほど前のことと思います。感想は、、、衝撃的に面白かった。以降、ネット書店の在庫が安定せず、5巻を読み、今回、3巻を読みました。
今回の巻を読んで気づいたこと。
たくさんあれど、ひとつだけあげるなら・・
私が自分の心身を、「良い/悪い」「役立つ/立たない」「望んでいる/いない」「思い通りになる/ならない」など、いわば身勝手な基準で分けてとらえ、常に、悪い部分を退治しようとしてきたなぁ、ということ。
例えば、脳の過労が双極性障害という形で現れる体質の私の気力の波の、低い部分。
例えば、このところ強くなっている、耳鳴り。
例えば、白内障に続いて網膜裂孔を生じ、残ってしまった飛蚊症。
そういうものを、なんていうか、、「ありたい自分」「あるべき自分」から切り出し、、、切り離し、、、なんていうか、、、その存在を嘆いていた。否定していた。否定する主体としての「自分」に、そもそも入れていない感じ。
それはまあ、、そういう症状は、、ないに越したことはないですけど。
でも、想像するに「ないに越したことはない」の最たる存在でもあろう「癌」を得た人、しかも、「緩和ケア」に入院してくる人の、程度の重い癌との付き合い方と、それへの神田橋医師の眼差しを見ている、、、いや読んでいる(会話がそのまま記載されているので、その場に立ち会って「見ている」かのような読書体験となります)と、癌ですら、ないに越したことはない悪者、としてではない、もっと良い捉え方や付き合い方も、あるかも知れないのだなと、思えてきます。(この巻で、個別事例に対しての、そうした視点での直接の助言があったため、これまでの読書体験の中でそれを感じていたことに気付きました)(「もっと良い」の「良い」とはなにか、、という中心問題は、いまは避けて通ります)
だからと言ってすぐにどう、考え方や行動が変わる、というアテもないのですが。
でも、そうですねぇ、、、これは例えになるかどうか分かりませんが、精神科病棟に入院していたとき、人の気分を察して言動を調整してばかりいる、今流にいえば「忖度」が身に染みている自分の部分を卑下していたら、入院仲間が、「少しも悪いことじゃない、こちらとしてはありがたい、言いたいことばかり言っている人は近くにいて疲れる」と言ってくれたことがありました。以降、「忖度」する自分に自分で気づくたびに、ああ、関係を円滑にするよう頑張ってるな、と、その部分へ、同情や感謝を感じてもいます。
・・なんか違うかな😅
他にもいろいろ、深い部分で自分の、、、なんていうか、、、自己認識の形に、気づきをもたらしてくれる読書体験でした。
神田橋医師の精神科臨床医としての、そしてスーパーバイザーとしての、患者やスーパーバイジーにあたる姿勢そのままに、言葉として捉えられる考え方よりも、直感というか体感というか、言葉以前の部分への、なんていうか、、、風? 風を送られたような感覚。受け取ったものが私の中で言葉になるならないは、今は重要でないのだろうと思います。
そうそう、医療者でなくとも、身内の死にかかわっていく時期を迎えている人には、大きな支えとなるシリーズだと感じます。
(都合の悪い部分を「自分」から分離して敵視する形が「悪い」という主旨ではないです。その形をずっとやってきていたなと気づいたということ、他の形を試したらなにか開けると思ったということ、です)
(追記:「ともにある 〈Ⅳ〉」は、緩和ケアとは離れたテーマでした)