☆浅いながら不調が続いているなかでも、やりたくてやれること。
☆不調が消えたときに、やりたくて注力すること。
いずれも「精神科病院への入院体験をもとにした小説」の執筆です。
一通り書き切って脱力放心していたとき、知人から全編に渡っての指摘をもらったことで奮起し、改稿を続けていましたが、それも夏前に終えました。
ほっとしたのも束の間。。ひとつ前の章を読み返したら、あまりに出来が悪く、、、(最終章のできがよく、つまり、長く書いている間に上達したので、今の自分には前の章のあらが目立つ)、、、いまはその章の、全編を見渡しながらの修正を、続けています。
今日は、強烈な苦悩苦痛の体験の、つまりはもっともドロドロしていた期間の、最後ともいえるエピソード部分の(修正稿の)見直しを終えました。
(いつか本になった時に初見で味わって欲しいので、内容は書きません)
小説家であり双極性障害の当事者でもある絲山秋子さんが、病とのつきあいについて書いた本の中で、症状がきつかったときの体験を書くと、思い出すことで、書いている今の症状が悪化するために、書けない、、、とか、おっしゃっていました。
いぜんお話しさせていただく機会のあった、いく人かの出版社の編集者の方も、精神的な病の当事者が体験を書くことの難しさの一つとして、同じことを挙げていました。
自分はこの双極性障害がらみのきっつ〜い体験を、あたかも自ら飛び込んだ(あるいは迷い込んだ挙句の)「冒険」や「修行」のように捉えている部分もあり、困難を振り返って文章にする作業も、冒険譚やら修行譚を書くような気分が強く、苦しいほどに使えるエピソードであるかのような、不思議な優越感、不思議な楽しさも、感じています。
それでもやはり、その時の思考を思い出し、なぞり、当時の体験が今の体感として実感されるまでに潜り切り、さらにはそのまま、そのときは必要でなかった、それらの体験を読んだ人の体験に移すための言葉たちを、探し続ける必要も伴う作業は、、、、、おそらく絲山さんや編集者たちがおっしゃったように、今の自分を、痛めつける時間だとも思うのです。
自分がそうした行為で代表されるような、自身の心身を痛めつける作業(体の方も、目や首や背や腰が疲れたり、運動不足が続いたり・・)を続けていることに、充実の実感をともなう高揚を感じてきましたが、、、このところその、いわば、「目的のために命を削る」行為は、、、残りが少なくなってきた、今を、現実を、人との関わりや旅の楽しさを、味わえる月日を思うと、、、終わりにしたいなと思い始めてもいます。
そう、これは、劇作家で演出家の鴻上尚史さんが著書の中で、作詞家やミュージシャンでも精神科医でもある北山修さんとの対話を引きながら語っていたことなのですが、創り手によっては(あるいは読者や視聴者によっては)作品や創作のための人生、を生きているけれど、お二人はずっと、人生のための作品や創作、でありたくて、また、そうやってきた、と言うのです。
わたしも、創作や作品のための人生、であることに高揚を覚えていたのを、今後は、人生のための作品、人生のための創作、に改めてゆきたい。
・・なんだか話しが逸れてきました😅
苦痛を書くのも充実して楽しかったけれど、それが山越えして、ほっとして、、、チョコとアイスをたくさん食べました〜😍
自分に厳しく生きてきたことで、生きる方向を誤り、病の力を借りてやっとの思いで修正し、、、しかし、遅れてしまった人生を巻き返すために、結局は自分に厳しく生きてきた。
その足跡はこれまでの自分にしかたのなかったものとして、感謝とともに受け入れて。
これからは自分に甘く、「楽しい」にこそ欲張りに、生きていきたいと、思いました🐬
(面白くて養生のためにもなる本でした。自分の見方で、言葉で、病や養生を語っているところに、すごく感心し、尊敬を覚えました)
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