今日は立冬で、明日は皆既月蝕だとか。
日没後の少し大きな公園を、先ほど散歩してきました。
立冬、というには風もなく、寒すぎもせず、気持ちのよいブラブラ。
見上げた空には雲間から丸い月の一部が見えていました。
月を見ながらブログの記事を考えるとき、光野桃さんのこの本のタイトルを、思い出します。
「あなたは欠けた月ではない」
かなり前に読んだ本なので内容をよく覚えているわけではないのですが、要は、満ち欠けするように見えても、実際は常に「満月」である月を比喩として、「欠けた」自分との認識を改めることを、促すものだったように思います。
わたしの双極性障害は、十数年前の秋に兆し、まさにこの立冬あたりから本格化し、冬至あたりに、ストンと、自立できなくなりました。(ストン、と落ちるところが、単極性の「うつ病」のうつの初発と違う、双極性障害のうつの初発の特徴でもあるようです)
そして体調の満ち欠けを繰り返す長い年月の中で、自分を「欠けた」者としてしか、認識できなくなっていったように、思います。
一方で。
このところ(ほんとうに、このところ。ここ数日、と言い換えてもいい)の自分は、本来の自分がこうであったと思えるような、、、自分としての「従前」でも「十全」でもある、満ちた感じを、自分に感じています。(双極性障害にありがちな、ハイ、軽躁、としての「万能感」との違いは、・・・長くなるので割愛します。それはまたいずれ)
そうなった自分から振り返ると、病になってからではなく、もっとずっと前から、自分は自分の持つ才能や力の一部しか、あるいは一部ずつしか、力を発揮できていなかったことが、体感として分かります。
そしてその、自分の能力を隠していた部分、発揮の邪魔をしていた部分が、皆既日蝕でいえば、月と太陽との間に入る地球のように、、、、外からの取り込み、異物、であったこともまた、分かるのです。(物理的にそうである、という意味ではなく、イメージとして、物語として、成り立ちとして、です)
異物の主たるものは、わたしの場合、二つ。ひとつは主に父による(一つ前の記事で触れた)複雑性PTSD。もう一つは、母から、言葉や態度を介して植え付けられていた、生き方の、自分に合わない指針や規制、でした。
満月だったわたしに、多くは愛情からとはいえ両親のわたしへの常なる言動が悪い方へと働き、長きに渡って、わたしを翳らせた。そして病を得て、皆既蝕となり、、、わたしの場合は二度も皆既蝕となり、、、その療養の中で、父からの影響に気づき、母からの影響に気づき、対処が進み、、、いまやっと、満月に戻った。
そして体感として分かったのです。
「あなたは欠けた月ではない」
わたしは、わたし自身は、つねに「満月」だったのだなと。
わたしは欠けた月ではない。
欠けた月であったことは、一瞬たりとも、なかった。
先ほどの散歩で、今日は地球ならぬ雲で一部が隠れた月を見ながら、改めて思ったのでした。
(知っただけで療養の効果がありあそうなタイトルですよね〜。すごい)
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