2021年6月27日日曜日

「ともにある 〈Ⅲ〉 神田橋條治 由布院・緩和ケアの集い」・・自分に対する「思い方」の傾向に気づきました。

 

オフにすると落ちる、の繰り返しから逃れようと、計画的に土日をオフにしてみました。


気晴らしをしたいと思いましたが、、、ちょうど届いた本、「ともにある 神田橋條治 由布院・緩和ケアの集い」シリーズの3巻を開いたのが、運のツキ😄 (「ついていた」ほうのツキですかね) 丁寧に、かつ一気に、読みました。


このシリーズは、おおすじ、癌で余命わずかと見立てられた人を、医療の場でサポートする職の人が、自分が経験した(している)患者さんとのかかわりを、温泉旅館の一室で、同職者のもと神田橋條治医師を相手に話し、神田橋医師が感想や意見を述べる。その様子を、丁寧に文字起こししたものです。


十数年来の「神田橋ファン」で、著書は業界誌や小冊子も含めて、ほぼ購入し、繰り返し読んできました。でもこのシリーズは、なぜか読む気にならないまま年月が経っていました。


神田橋医師の診療を実際に受けるようになって、なぜか読む気になり、1巻を開いたのは、半年ほど前のことと思います。感想は、、、衝撃的に面白かった。以降、ネット書店の在庫が安定せず、5巻を読み、今回、3巻を読みました。


今回の巻を読んで気づいたこと。

たくさんあれど、ひとつだけあげるなら・・


私が自分の心身を、「良い/悪い」「役立つ/立たない」「望んでいる/いない」「思い通りになる/ならない」など、いわば身勝手な基準で分けてとらえ、常に、悪い部分を退治しようとしてきたなぁ、ということ。


例えば、脳の過労が双極性障害という形で現れる体質の私の気力の波の、低い部分。

例えば、このところ強くなっている、耳鳴り。

例えば、白内障に続いて網膜裂孔を生じ、残ってしまった飛蚊症。


そういうものを、なんていうか、、「ありたい自分」「あるべき自分」から切り出し、、、切り離し、、、なんていうか、、、その存在を嘆いていた。否定していた。否定する主体としての「自分」に、そもそも入れていない感じ。


それはまあ、、そういう症状は、、ないに越したことはないですけど。


でも、想像するに「ないに越したことはない」の最たる存在でもあろう「癌」を得た人、しかも、「緩和ケア」に入院してくる人の、程度の重い癌との付き合い方と、それへの神田橋医師の眼差しを見ている、、、いや読んでいる(会話がそのまま記載されているので、その場に立ち会って「見ている」かのような読書体験となります)と、癌ですら、ないに越したことはない悪者、としてではない、もっと良い捉え方や付き合い方も、あるかも知れないのだなと、思えてきます。(この巻で、個別事例に対しての、そうした視点での直接の助言があったため、これまでの読書体験の中でそれを感じていたことに気付きました)(「もっと良い」の「良い」とはなにか、、という中心問題は、いまは避けて通ります)


だからと言ってすぐにどう、考え方や行動が変わる、というアテもないのですが。


でも、そうですねぇ、、、これは例えになるかどうか分かりませんが、精神科病棟に入院していたとき、人の気分を察して言動を調整してばかりいる、今流にいえば「忖度」が身に染みている自分の部分を卑下していたら、入院仲間が、「少しも悪いことじゃない、こちらとしてはありがたい、言いたいことばかり言っている人は近くにいて疲れる」と言ってくれたことがありました。以降、「忖度」する自分に自分で気づくたびに、ああ、関係を円滑にするよう頑張ってるな、と、その部分へ、同情や感謝を感じてもいます。


・・なんか違うかな😅


他にもいろいろ、深い部分で自分の、、、なんていうか、、、自己認識の形に、気づきをもたらしてくれる読書体験でした。


神田橋医師の精神科臨床医としての、そしてスーパーバイザーとしての、患者やスーパーバイジーにあたる姿勢そのままに、言葉として捉えられる考え方よりも、直感というか体感というか、言葉以前の部分への、なんていうか、、、風? 風を送られたような感覚。受け取ったものが私の中で言葉になるならないは、今は重要でないのだろうと思います。


そうそう、医療者でなくとも、身内の死にかかわっていく時期を迎えている人には、大きな支えとなるシリーズだと感じます。


(都合の悪い部分を「自分」から分離して敵視する形が「悪い」という主旨ではないです。その形をずっとやってきていたなと気づいたということ、他の形を試したらなにか開けると思ったということ、です)

(追記:「ともにある  〈Ⅳ〉」は、緩和ケアとは離れたテーマでした)



2 件のコメント:

三毛ニャン さんのコメント...

うちの老人向けマンションは、近所の内科医に協力してもらって、マンション内で集合注射をしてもらいました。(建物の設計が、集団接種に適してたこともあります)
ところで、老人への接種で、抗体がどれだけできるのか、どこにも統計がないんです。
有志を募り、抗体検査をすることにしたら、約』1割の10人が応じてくれました。

好奇心旺盛な人が応募してきた、ということで、決して無作為の統計とはならないのですが・・

それをブログに書いたら、ネット上で大バッシングが・・・
研究に携わってる精神科医からもバッシングがある、と間接的に聞きました。
本人自らランセットという針を刺すので、医師法上それは問題ないのですが、個人情報はどうなるのかとのこと。
(医師法とか知らないだろう素人からも同じ意見。予備知識をどこかから仕入れたかな?)

数日後に抗体検査を行うことにしてるんですが、皆さんの意見は、抗体検査キットを無料で配れ、というモノなんですが、それじゃ統計はとれないし、

血液採取をするスポイトの取り扱いが難しく、三毛が関わらないワケにはいかないです。

うちのマンションで集団接種を受けた人は全員ファイザー製のワクチンを受けている。
ファイザー製のワクチンはイギリス株には効果があるのは分かっている(但し、症状が軽くなるが、無症状感染を起こした場合、他人に感染させる可能性は残っている)

それとデルタ株(インドで突然変異を変異を起こした株)に対しては、6割くらいしか効果が無いだろうと言われている。

バッシングを受けても、抗体検査を行うべきか。抗体マイナスの人にはどう対処すべきか。
デルタ株に関しては、どう説明すべきか・・・

1週間語の抗体検査に関して、アタマを悩ませております。

愚痴吐きコメント、ゴメンナサイ、

明風(あけかぜ) さんのコメント...

三毛ニャン(さん、は要らないのでしたよね?)

このブログ開設以来の、昨日まで最初にして最後のコメントであった、昨春にいただいたコメントに、昨夜やっとお返事が書けたところでした!
(https://akekaze.blogspot.com/2020/04/blog-post_22.html?showComment=1624970803294#c3657922973975097670)

そして抗体検査の話。。。
ブログで拝読し、ご苦労さまだにゃー、なんか怖そうなことになってるから、関わらないでおこう、と思っていました(笑)

まあ、わたしの個人的勝手な感想としては、、、いい大人、どころか、人生の先輩たちが集まって各々の納得の上に行う任意の研究発表に、法的にも倫理的にもなんの問題があろうか、って感じです。抗体の上昇が認められなかったときにどうするかも、それは「どうしたもんですかねぇ」てなもんで、問題は、上昇していなかったこと、あるいは上昇しなかった時にどう考えどう対処したら良いかの指針が周知されていない、もしくはまるで考えられてもいない、という方にあるのだろうと思います。

各々の「人」の問題なのになぜか「国民」などと、よく言えば「公衆衛生」、悪く言えば効率で捉えていて、こっちの領域でいえば、産業動物と同じ扱いになっていることに、みなさん気づいていないのかなぁ、とか連想しました。ニュースの見出し程度しか見ていないので分かりませんが、ググれば、抗体検査でどの値まで上昇すれば感染防御に役立ちそうだ、くらいの論文は、あるのですかねぇ。あるいはそこにマーケットを見込んで売り出してもいるはずの、キットの販売元に聞いてみるとか?

なんとなく、昔とったなんちゃらの血が騒いで熱くなってきました!(笑)


あ、「やったたほうがいいですよ」とか「やらんほうがいいですよ」との意見はありません。

ただ、ふつう、マンション住人が、一人の人の意見にこんだけ耳を貸し、実行に移ろうとする、なんてないでしょ?
これまでも専門知識を住人のために生かそうと奔走してきた三毛ニャンだからこそだな〜、と、尊敬の眼差しで思っていました。

わたしも人の役に立ちたい思いは強いけど、人との関わりの中で発揮するほどの安定は、少なくとも今はないので、いつか作品が私に代わってそーなってくれるよう今は原稿に努力しようと、励まされました〜☆

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